劇伴が素晴らしいアニメ5選【その5】鷺巣詩郎/『新世紀エヴァンゲリオン』

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劇伴が素晴らしいアニメ5選【その4】菅野祐悟/『サイコパス』


どうもあいたんです。
劇伴が素晴らしいアニメ5選」第5作目は、言わずと知れた名作『新世紀エヴァンゲリオン』です。何かと話題を呼ぶ本作ですが、実は劇伴も素晴らしい。
 

作品紹介:新世紀エヴァンゲリオン

1995年10月から1996年3月にかけてテレビ東京系列で放送されたSFアニメ作品。放送時の視聴率は低かったが、放送終了後に斬新なストーリーが物議を醸し賛否両論の議論を引き起こした。1970年代の『宇宙戦艦ヤマト』、1980年代の『機動戦士ガンダム』と並び、後のアニメへ影響を与えた第三世代のアニメ作品でもあり、爆発的なアニメブームのきっかけとなった。1997年には、TVアニメ版の結末(第弐拾伍話、最終話)とは別の結末を描いた劇場版『Air/まごころを、君に』(第25話、第26話)が公開された。(Wikipediaより)
 

劇伴作家:鷺巣詩郎

鷺巣氏は、アニメやドラマ、映画などの映像音楽はもちろんのこと、1980年代のアイドル歌謡から、近年のシンガー・アーティストに至るまで、多くの楽曲を手掛けている作曲家・音楽プロデューサーである。
『エヴァ』において、TVシリーズ前半に見られるコメディを交えた日常描写から、後半の退廃的な世界観まで、幅広い表現でありながらあくまで地続きの世界として成立しているのは、氏の劇伴による力が大きい。どういうことかと言うと、楽曲を聴けば説明がなくともすぐにそれがどのようなシーンなのかなんとなく想像できてしまうのだ。
例えば「Decisive Battle」。出撃・戦闘シーンで劇中何度も用いられ、この曲が流れただけ敵が攻めてきたのだとわかる。直前にどれだけ呑気な日常シーンが流れていたとしても、この曲が流れた瞬間に「敵が攻めてきたぞ」と視聴者の気持ちを切り替えてくれる。逆に日常シーンで象徴的な曲と言えば「Misato」だろうか。こちらは話の導入となる日常シーンで多く流れる曲。曲名の通り、主にミサトさんの家でよく流れるテーマだ。アスカの登場シーン、アスカとシンジの夫婦漫才のようなシーン(第九話のラストが印象的)で流れる「Asuka Strikes!」も捨てがたい。もちろん、後半のシリアスな雰囲気を演出するのは「Thanatos」だろう。
 

このアニメを気に入った人に見てほしいその他の作品

「ふしぎの海のナディア」「彼氏彼女の事情」「ブラック・ブレット」
鷺巣氏が音楽を担当している主な作品を挙げてみました。

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以下、筆者の好き勝手な解釈です。

『エヴァ』で描かれているものとは

『エヴァ』の考察・評論と称したものは、難解なストーリーの解釈や複雑な設定を宗教や神話と絡めて解き明かすようなものが中心となっている。しかし、それらは『エヴァ』の表面的な部分であって、本質ではないと筆者は考えている。ここでは、「そもそもエヴァとはなんなのか」という視点から作品の核となる部分を想像し、賛否両論を巻き起こしたあの結末が必然であったのだということを述べたい。
以下は漫画版の2巻巻末に記載された第三・四・拾四使徒デザイナー、あさりよしとお氏の言葉である。まさに自分が言わんとするところをわかりやすく書いてくれているので目を通していただきたい。

マニアックなディテールに凝った設定を「スゴい」「さすが」ともてはやしたり、なかなか全貌の見えない「裏」設定をチマチマほじくったり…。確かにそういう楽しみ方もあるだろう。しかし、それらは料理で言えば「盛り付け」であり「器」にあたる部分だ。「きれい」だとか「おいしそう」では、料理への賛辞にはなっていないし、拒絶するにしても「見た目がくどい」とか「器に凝り過ぎ」では料理の本質を見誤ること甚だしい。エヴァンゲリオンは実にオーソドックスなドラマである。ミもフタもない表現を使えば「シンジ君の成長ドラマ」とくくることができる。なのに、なぜ皆さん普通の見方をしない!?

本作の有名な台詞に「逃げちゃダメだ」というのがある。これは主人公碇シンジの、1話における台詞なのだが、その意味合いは「(正直僕自身はエヴァに乗りたくないけど)逃げちゃダメだ(から乗る)」というようなものだ。ネルフという場、またパイロットである自分に対して非常に消極的な言葉である。それと対照的なのが最終話の「僕はここにいたい」という台詞である。こちらは明確に自分自身の意思を示しているという点において1話の台詞との違いは明らかだ。結局のところ、エヴァというのは、そこに至るまでの少年の精神的な成長の物語でしかないのだ。それを作品の本質(テーマ)と考えれば、最後に自分で自分を認めることができて、「おめでとう」と祝福を受けるラストは決して不自然な流れではない(「エンタメとしてどうなんだ」という主張は当然あるだろうが)。
その成長の過程が、第六話「決戦、第3新東京市」のヤシマ作戦や第拾九話「男の戰い」をキーに描かれている。以下で述べるが、それぞれのシーンが新劇場版『序』『破』のクライマックスとなっている。
 

筆者が受けた影響

最終話ラスト、シンジの「僕はここにいたい」という言葉と共に周囲の壁が割れるように崩壊し、青空のシーンへと移っていく。その瞬間、筆者自身の心も青空のように澄み渡っていった。「僕はここにいてもいいんだ」と認めることができた。これは自分にとっては大きな価値観の変化で、この時に「アニメって所詮画面の中の話なのに、ただの絵なのに、現実世界の人間をこんなにも変えてしまう力を持っているのか」ということに心底驚かされた。それ以来、私はアニメの魔力に取りつかれたようにたくさんの作品を見ることとなった。
「自分で自分を認める」というのは、おそらく人間が社会で生きていく上で必要なことの初歩の初歩な気がする。自分を認められない人は、他人が自分を認めてくれるはずがないと疑って他人を信じることはできないから、他人を認めることもできない。TVシリーズ、そして旧劇場版で描かれたのは、そうした初歩を乗り越える話だったと思う。
 

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』で描かれるものとは

私が思うに、新劇場版でもテーマの観点からは一貫していて(物語としては続いていないと思うが)、『序』ではミサトに言われるがままエヴァに乗っていたシンジ(ヤシマ作戦)が、『破』では自らの意思で綾波を助けるために乗った。ここまでは旧作と同じで自我を認めた、というところだと思う。では、自分の意思で行動するようになった時、何が起こるだろうか。それは、新たな絶望である。自分の意思で行動するということは、好き放題やって他人を傷つけてもいいというわけではなく、自分に責任が発生するということだ。「自分を認める」という壁を乗り越えた先では、必ず「他人」という新たな壁にぶつかるはずで、それがまさに『Q』の状況である。そして、シンジは自分の責任を背負いきれずに目を背け、カヲルはそれを引き受けて犠牲となった。

「『Q』ではシンジが絶望する話になる」ということを『Q』上映前から筆者は言い続けてきた。その意味で『Q』は予想通りの展開だったし、4作目への期待が天を突く勢いで高まった。
だとするならば、次回作「シン・エヴァンゲリオン劇場版」で描かれるのは何なのか。自分の意思に責任を持って行動できるようになるシンジが見られると筆者は推測している。他人の意思を尊重しつつ、自分の意思を表現できるようになるということ。要するに、シンジはアスカと結ばれるということ。もう少し具体的に言うと、旧劇の綾波との疑似騎○位のカットがアスカとの正○位になるか(旧劇ではシンジはオナニー(自我の解放)までしかいかなかったので次はそうかなと……エヴァの呪縛で28歳になったのは今のご時世14歳のまま卑猥なことはできないから規制対策なんじゃないかとか邪推してみたり……)、もしくはTVシリーズであったキスシーンを今度はアスカからではなくシンジのほうからするみたいなやつが見られるんじゃないかと思っている。この予想が当たるか外れるかはさておき、こうした予想合戦もエヴァの醍醐味の一つだよな、と話を濁してこの記事を終わりたい。

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